3月19日の礼拝

先週の宣教より「主に苦しみを叫ぶ」 詩篇88篇1~18節 永町友恵

わたしたちが震災の時に叫び続けた主に対する問いと、この詩篇の作者の問いが合うような気がしましたのでこの箇所を選ばせて頂きました。
この詩篇は差し迫った訴えで始まります。最初は親しげで主に必要を訴え、そして期待しております。必死に訴え期待しているのです。この叫びこそがこの詩篇のキーワードです。
ユダヤ人たちは叫びよりも早く、主の答えの方が早いことを期待します。ここでは叫びが繰り返されていますが、しかし主の答えに対して厳しい思いがあります。この詩編の作者は答えのない世界を生きているのですが、主はなぜか沈黙し続けるのです。
しかしこの詩編の作者の凄いところは、叫びに対して主からの答えが無くても、決して主に対して黙ることはないのです。神からの答えが無くても、神がいないとは言わず、神の存在を疑ったり拒否することもなく、それ以上に激しく語りかけるのです。
まずこの詩人は昼は主に助けを求め、夜み前に叫んでいるのです。まさに主に対する信頼度が分ります。そして主にどれだけ自分の祈りと叫びを聞いてくださいと求めるのです。自らの状況がどんなに悩み、肉体もどんなに弱っているか語るのです。しかしこのことはこの詩人が答えのない世界を生きていることを語るのです。神はいつでも明確な答えをくださるのではないのです。
この詩篇の語り手は主に言葉を浴びせ続けます。死にかかっている人が唯一のいのちの源に対して叫ぶ叫びです。明らかにこの詩人にとって神との交わりこそがすべてなのです。
それが6~9前半節では変化が起こり、大胆不敵になり主に語るのです。一転、主へ反撃するのです。しかしこの詩人は無力です。そしてこの攻撃が応答を引き出してくださると望むのです。まるでヨブのように。しかし実際は沈黙が続くのです。
10節からは主の能力を問うています。死んだもの、亡き人の魂、墓、滅び、暗闇、忘れの国が語られます。一方で奇跡、おきあがる、ほめたたえる、いつくしみ、まこと、奇跡、義などは主のわざを書き連ねる。つまりこの詩人の置かれている場と、主がなさることがいかにかけ離れているのか。その主の行動に詩人は期待しているのです。
14節から再び叫ぶのです。主に対する最後の挑戦をしています。主に対して面と向かって避難するのです。あなたの激しい怒りが、あなたの恐ろしい脅しが、友を遠ざけたと。そして今や暗闇に置かれたと。この置かれた状況はあなたは私の役に立っているのですか、変化が無いじゃないですか。解決も無いじゃないですかと。
人生とは良いものだけではない。苦しいこともあるのです。性急さと安易さは危険です。主に見切りをつけるのはもっと危険です。
主イエスは十字架で、苦しみの極地でエリエリラバサバクタニと叫びました。わが神わが神なぜ私を見捨てるのかと。苦しみの極地でも尚神に叫ばれたのです。主イエスが神に叫ばれたように、私たちも神に叫ぶより道はないのです。主に期待しましょう。