5月14日 飯能バプテスト教会 礼拝説教要旨

召 天 者 記 念 礼 拝

説教題 「信仰によるキリスト者の死の恵み」 岩波久一

聖書 コリントの信徒への手紙 一 15章12節〜20節。

 

本日の礼拝は、召天者を覚えての記念礼拝をいたします。本日は皆さんの前に、召された方のお写真が置かれておりますが、お写真を見ていると、お一人お一人のことをいろいろと想い出すことでしょう。生前のことをあれこれと思い起こすことと思います。今は、思いっきり想い起し、懐かしんでください。

 

1)     人は必ずいつか召されます。

 

私たちは生まれ、その人なりの人生が与えられ、生涯を生きてまいります。そして、何時か、必ず死にます。死なない人はいません。しかし、死について語ることを多くの人は避けます。あまり考えたくないか、忌まわしいと思うのか、しかし、人生において、死ほど確かなことはありません。ご病気で召されるか、あるいは突然の事故で召されるか、召される状況は、それぞれ違いますが、死を逃れることは、ありません。死は自分で予期することはできません。ですから、私は思うのです。できるだけ元気な時、死については、その人なりに十分に考えておくことが大切です。死について、考えることを避けるのは、多くの人は、どのように考えたらよいのかわからないから、特に、死後の世界に対して、不明であるから、考えようがない。と言う方は多いと思います

今日は、召天者記念礼拝ですから、既に召された方を思い起こしながら、死について考え、それぞれ自分なりに、若い者も、高齢者の方も、自分お死について考え、自分の人生観、自分なりの死生観をもって、日々の生活を大切に生きてゆけるようにいたしましょう。

 

2)                                                                                 聖書は、何と語っているか。

 

詩編23編の言葉は、私は大変好きなところですが、次のように書いてあります。1節〜6節。主は羊飼い、私には何も書けることがない。主は、わたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、   〜〜 1 〜〜

魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の影の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいて下さる。〜〜中略〜〜命のある限り、恵と慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにととどまるであろう。この詩編を読むたびに、私は、心に何とも言えない安らぎを覚え、心が落ち着くのです。この詩を読むとき、私は、神様は、何時もあなたと共にいて下さるよ。たとへ、死の影を歩むような時にも、又、どんな災いに落ちようとも、主が共にいて下さり、わたしを力づけてくださる。そして、命のある限り、恵と慈しみが何時も伴ってくださる。もし死に面し、召されるようなことがあっても、わたしは主の家に帰り、生涯そこにとどまることができる。即ち、主イエスが共にいます神の国に永遠に住まうことができる。そのように信じたら、安らかな思いに導かれるのです。

 

3)                                                                                 死ぬという大切な仕事。

 

作家の三浦綾子さんのご主人、三浦光世さんと言う方が、おられますが、このかたとおあいすることがありました。それは、三浦さんご夫妻は、北海道・旭川六条教会の教会員でして、私は、その教会の特別集会に招かれて、礼拝でお話をする機会が与えられたのです。その教会は、当時、何時も、100名を超える礼拝出席者がある教会でした。私が、招かれた時は、130名ほどの方が集って下さり、良い礼拝でした。と、皆さんが喜んでくださいました。その折、三浦文学館を訪ね、三浦光世さんとお会いした時、「死ぬという大切な仕事、」と言う本、ご自分がお書きになった本ですが、それを頂きました。それは、三浦綾子さんが、晩年、だんだんお体が、弱ってきたころ、「わたしにはまだ死ぬという仕事がある」と言われていたのを思い起こし、三浦光世さんは、「死ぬという大切な仕事」と題して、聖書の御言葉から、また、身の回りの触れた方々の死を書いておりました。その中には、アシュラムでよい働きをされた榎本保郎先生の死にも触れておられますが、その本を読んで、わたしも「死と言うことは、大切に考えておかなければいけないことだと思いました。どんな人でも必ず死ぬのですから。

死に直面して、死を恐れることなく、おびえることなく、主に生かされた感謝とその恵みを思いながら、回りの方々、家族や知人に感謝しながら、「ありがとう」と言って召される時、そのように言える人生を生みたいと思います

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4)                                                                                 使徒パウロの死生観

 

使徒パウロが、コリントの信徒への手紙、一 15章には、パウロの死生観が明確に書かれています。パウロの考えの根底には、イエス・キリストの十字架の死と復活が、信仰によって、明確に示されている言葉です。それは、イエス・キリストが生涯を通して示された言葉、パウロが受けた出会い、体験したイエス・キリストの最後に受けた十字架の死、そして、葬られて、三日目に甦り、復活された出来事が、人生の大きな支えになっているのです。主イエスを信じるキリスト者の人生観を支えているのは、イエス・キリストの十字架と復活に対する明確な信仰によるのです。パウロは、語ります。

「キリストは、死者の中から復活した。と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない。と言っているのは、どういうわけですか。死者の復活がなければ、キリトも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」更に、わたしたちは、神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないのなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証をしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そしてキリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしくあなたがたは今も罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活で、キリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちに初穂となられました。(15;12〜20)。パウロにとっては、イエス・キリストの復活は、まぎれもない事実なのです。パウロは、こう告白いたします。「イエス・キリストは、弟子たちに現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも表れたのです。」(15:8,)

イエス・キリストの復活を信じることは、人は、肉体的な「死」は、それで終わりではない。と言うことです。

パウロは、こう告白いたします。「復活はない」と言うならば、「わたしたちは、全ての人の中で、最も惨めな者です。」。このように語れるのは、イエス・キリストの復活に出会い、その信仰によって生きること、その恵みが、いかに素晴らしいものであることを体験し、知っておられるからです。 〜〜 3 〜〜

5)                                                                                 復活の恵みは、神の国、永遠の命へのお導き。

 

「永遠の命」は、神様からの贈り物です。「子は(イエス・キリスト)、は、あなたからゆだねられた人すべてに永遠の命を与えることができます。永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ 17;2,3,)。

神の子、イエス・キリストを知り、信じ、イエス・キリストの十字架と復活を信じた時、私たちの罪はすべて赦され、神との和解の道が開かれ、救いが与えられるのです。そして、同時に永遠の命が与えられるのです。永遠の命は、人が、死んで後、与えられるのではなく、イエス・リストを信じ、十字架の贖罪の恵に預かり、神の恩寵によって、与えられるのです。これは、イエス・キリストによって与えられる最高の恵みです。それゆえ、イエス・キリストを信じ、従う者は、死の恐れが消えるのです。死におびえることがないのです。

死は、罪によるものです。ローマ6章23節、「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命のです。」(ローマ6;23)。

『死』は、神との断絶を意味します。死は、神との交わりを拒否します。罪は、神を否定し、神を神として、認めませんから、神との交わりは、生まれません。従って、神を信じませんから、永遠の命の恵みを知ることができません。

神を知り、イエス・キリストの救いにあずかる者は、神の恵の内に生かされていすから、神の国、永遠の命を知っていますから、死の恐れから、解放されているのです。

6)                                                                                 第一の死は、恐れず、第二の死は、恐れよ。

人は、第一の死は、体の死であります。これは、全ての人に及びます。この第一の死は、誰も免れることはできません。しかし、第二の死は、霊的な魂の死です。

霊的な、魂の死は、神との断絶を意味し、復活はありません。

わたしたちが、心すべきことは、今の生活を振り返り、主イエス・キリストの十字架の愛を受け入れ、罪の赦しを与えられ、その恵の中に生き、神の国、永遠の命を神の恵によって与えられている喜びをもって確信して生きることです。

イエス・キリストにある信仰は、人生を豊かなものに、日々、造り変えてゆきます。神が、与えてくださった人生を大切に生きて参りましょう。

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